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教員インタビュー

教育とは「自己教育」へのプロセスである

 同じ問題を、「教育」という観点からたどりなおしてみることにしましょう。

 教師を長くやっていると、実にいろんな学生と出会うものですが、ただ、なかには必ずどこでも見かけるタイプの学生も紛れこんでいます。それは、すぐに「答え」を求めようとするひとたちです。このタイプの学生には、「答え」以外のことにほとんど関心を示さない、という共通点があります。ひたすら「正しい答え」をノートに書き写すことだけに気をとられているのです。教師は、何か質問を受けたら、すぐに「答え」を与えてくれるはずだ。彼らはそう考えているように見えます。

 しかし、このような考え方は、単にまちがっているばかりでなく、きわめて危険なものです。どんなに優秀な教師でも、結局はみんなと同じ生身の人間に過ぎません。たしかに専門的な研究においては、他を圧倒するだけの知識を身につけていますが、それでもミスをおかすことは十分にありえます。また、場合によっては、とんでもない思いこみのために目が曇ってしまっているということも、しばしばあるはずです。教師の提示する情報を全てうのみにしていると、思わぬところで足元をすくわれかねません。

 たとえば、私自身が授業をする時に重視しているのは、「模範解答」を示すことではありません。むしろ、ひとつの「答え」にいたる「プロセス」にこそ、最も注意を払っています。本当に重要なのは、受講者ひとりひとりが、どのような考えを経て結論に達するのか、というところにあると思うからです。思想の授業であろうと、文化論の授業であろうと、語学の授業であろうと、この基本的な方向性に変わりはありません(もちろん、それが本当に成功しているかどうかは、まったく別の話ですが)。

 教育とは、他人から教わる姿勢を、生徒たちに植えつけることであってはなりません。本質的なことというのは、結局のところ、自分自身の努力を通してしか学ぶことができないからです。自分の頭を悩ませることなく、お手軽な方法でホイホイと他人から知識だけ受け取っていても、そんなものが身につくはずはありません。逆に言えば、すぐに「答え」を教えたがる教師には、気をつけたほうがいいのです(これは、教師としての私自身に対する自戒の意味もこめています)。

 この世の中には、誰も模範解答を知らない問題というものが、無数に存在します。しかもやっかいなことに、このような難問にぶつかる場面は、人生の日常においてこそ飛躍的に増えるものです。仕事や人間関係というものは、予想もしないようなアクシデントに満ちあふれているからです。

 こうした現実の具体的な場面では、誰ひとりとして私たちに「答え」を教えてはくれません。「答え」は、どんなに不器用だろうと、どんなに滑稽だろうと、そのつどそのつど自分自身の力で出していくしかないのです。与えてもらうことにばかり慣れてしまうと、最も肝心な場面で、なんの対策も講じることができなくなってしまいかねません。

 もうお分かりでしょう。教育とは、その現場に関わる人々の「自己教育」にいたるプロセスのことです。教師は、生徒自身が自らを教育するためのプロセスを見守り、必要な場合には手助けする存在です。したがって、仮に教育というものに「完成」があるとすれば、それは生徒ひとりひとりに教師が不要になった時、ということになるでしょう。

知性とは、勇気の問題である

 くりかえしますが、根源的な難問というものには、誰も「模範解答」を出すことができません。それに対する「答え」は、自分なりに出していくほかないのです。そして、こうした答えのない難問こそ、本当に真剣に取り組むに値するものなのではないか、と私は思います。最初から答えが用意されているような問題とそのマニュアルは、私たちが取り組まずとも、ほかの誰かがやってくれるでしょう。

 私が述べたことを受けて、不安を感じるひともいるかもしれません。「自分などに、そんな難問に対処する力があるのだろうか」と。このように思うことは、決して恥ずかしいことではありません。実際、しばしば私自身もこうした不安を感じることがあります。この不安を共有するすべてのひとに、ドイツの哲学者、イマヌエル・カントが遺した言葉を贈りたいと思います。

「啓蒙とは、人間が、自分自身に責任のある未成年状態から抜けでることである。未成年状態とは、他人の指導を受けずに自己の悟性を使用する能力のないことである。自分自身に責任があるとは、未成年状態の原因が、悟性の欠如にあるのではなく、他人の指導を受けずに悟性を使用する決断と勇気の欠乏にある場合のことである。知ルコトヲ敢エテセヨ! 自己自身の悟性を使用する勇気を持て! これがすなわち、啓蒙の標語なのである。」(『啓蒙とは何か』)

 一見、難しい文章ですが、いくつかの哲学用語を分かりやすい言葉に置きかえてみると、カントの言いたいことがはっきりとしてきます。たとえば、「啓蒙」という言葉を「教育」と言いかえてみましょう。また、「悟性」とは、とりあえず「頭」ないし「知性」のことだと理解してください。

 要するに、カントはこう言ったのです。ひとから導いてもらうことばかり考えている者は、いつまでたっても「大人」にはなれない。きみの目の前に深刻な問題が現れたのなら、どんなに怖くても、他人に頼ることなく、自分自身の力でぶつかっていく勇気を持て、と。

 カントの考え方からすれば、知性とは、正しい答えを出せる力のことではありません。それはむしろ「勇気」の問題なのです。自分の判断について、ひとの名前を引き合いに出すのをやめること。どんなに格好が悪くても、自分自身の名前において行動しようとすること。自分の考えがどんなにまちがっていたとしても、「自分はこのように考えたのだ」ということに責任を持つこと。これこそが「知性」のあかしであり、「大人」であることのあかしである、というわけです。

 実のところ、このような意味での「勇気」は、どこにも「終着点」を持ちません。「ここまで勇気を出せば、それで終わり」ということが言えなくなってしまうのです。私たちは、少しだけ「自分の頭で考え」たからといって、ただちに「未成年状態」を抜けだせるわけではありません。カントの言う「大人」は、実年齢とはなんの関係もありません。カント的な意味での「大人」になるには、絶えざる「自己教育」の努力が必要となるはずです。そして困ったことに、どれほど自分では努力しているように思ったとしても、本当に自分が「大人」になれたかどうかは、ついに謎のままです。それはカント自身をはじめとして(ましてや私自身は言うまでもありませんが)、全てのひとに当てはまることでしょう。

 けれども、ひとが生きるということは、まさにそのような謎だらけの人生を引き受けるということではないでしょうか? どんなに平凡に見える日常の1コマにおいても、ひとたび突きつめていけば、誰にも答えることができないような謎や難問が、いくらでも控えているはずです。

 こう考えてみると、少なくとも私にとって、カントの言葉はある励ましに満ちたものに見えてきます。人生のありとあらゆる現実的な問題が、本来、謎や難問だらけなのだとすれば、自分の出した答えがどんなに世間的な尺度から外れて見えるとしても、そのことだけをもって「自分はダメで無能な人間だ」などと思い悩む必要はない、ということになるからです。難問の前でたじろぐたびに、私はカントの言葉を思いだすことで、かすかな希望の光を見い出してきました。その言葉には、一面ではとても恐ろしい真理が含まれているとしても、です。

 「自分自身の頭で考える勇気を持て!」 これこそが「教育」の標語と言えるかもしれません。そして、こうした「勇気」を出すことは、おそらく決して終わることのない「プロセス」そのものなのです。

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取材協力:田口卓臣准教授プロフィール

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